アメリカ生活の長い人と会ったとき、なんとも言えない「アメリカ感」を感じたことはありませんか?

私の場合、それを「なんだかなぁ~」という、「違和感」と感じていたことが昔はありました。

しかし!

いま立場が逆転しまして、私自信アメリカで生活するようになり分かるようになりました。

これなのかな~こうなっちゃうと違和感を感じさせちゃうだろうなぁ、という症状に気がついてしまったのです。

私はハワイに住むこと数年、そしてラスベガスに住むこと数年、この記事を書いている現時点で合計約4年半が経ちました。

※これから書く気づきは、このたった4年半のアメリカ生活で発見したものである事をご了承下さい。

私はアメリカで販売員をしていますが、同僚で日本語を話す人がいません。

そして日本人のお客さんもほとんど来店されません。

この土地で、日本語を話すお友達もいないので、日本語を話すのは、家族や友達と電話で話す時だけです。

そのため、日常会話はほぼ100%英語です。

旦那さんが「おはよう」「おやすみ」などの日本語は分かるので「ほぼ」です。

ある日、日本人のお客さんが珍しく来店された際、日本の方とは分からず、アジア系アメリカ人の方だと思い英語で話していました。

急にお客さんが私の日本名の名札に気づき、日本語で話し始めて下さいました。

そこで1つ気が付いてしまいました。

「すっと敬語が出てこない」

日本語を話す前提で会話が始まると、こんなことは起こりませんが、英語を話していて、急に日本語に変換するとなると、思考が付いていかず、とてもたどたどしい敬語になります。

その時も、「あっ、日本の方でしたか!」なんて言ったと思いますが、普段そんな言い方しないよね、という変てこな言い方になりました。

そこから一生懸命敬語を使おうとしましたが、とても下手くそな日本語になってしまいました。

お恥ずかしい話ですが、元々敬語が苦手というのもあります。

職場で日本語を使うことが全くと言ってよいほどないので、普段英語で話している事を、日本語ではどんな口調で言ったら良いのか混乱し、まごまごしてしまいます。

自分でも変な敬語を使っている自覚があり、緊張し、正しく言おうとすればするほど、たどたどしくなってしまいました。

この症状が数分続いてやっと慣れていきました。

あまりに違和感があったのか「アメリカ長いんですか?」とお客さんに聞かれてしまい、とても恥ずかしい思いをしました。

こうなりたくて、なってしまっている訳ではないのです。

アメリカにいるからこそ、綺麗な日本語で話したいという思いが強くあります。

しかし英語ばかり話していると、こんな事が起こるのかと自分でも驚きました。

「日本語で何と言うのか分からない」

この症状は特に日本語から覚えた英語ではなく、英語を英語として覚えた単語やフレーズを使う場合が多いです。

例えば「Mother-of-Pearl」という単語を、この販売のお仕事を始めてから知りました。

ジュエリーに埋め込まれた石を指して、これは「Mother-of-Pearl」だと教えられました。

日本人のお客さんに「この石は何?」と聞かれた時のことです。「Mother-of-Pearl」が日本語に訳せず、「これはMother-of-Pearlです」と口から出ました。

しかも!その時なぜか「これはマザーオブパールです」とカタカナ発音さえできず、「マザーオブパール」だけ英語の発音になりました。

これには本気の赤っ恥をかきました。

こんな変な英語交じりの日本語を聞いたら、「えっ!?」となりますよね。

いやぁ、本当にゾッとしますが、英語を話す日本の方が相手だと、余計にこの症状が強くなります。

そしてこの症状は、石の名前に限らず出てきてしまいます。

英語を勉強中の方は、色々な方法で新しい単語やフレーズを覚えていくかと思います。

私の場合、アメリカに住み始めてからは、もっぱら会話を通じて増やしていくことが多くなりました。

新しい単語が会話で使われていても、話し手の口調、表情や周りの単語から、それがどんな雰囲気の意味を持つ単語なのか、おおよそ想像が付きます。

会話中に新しい単語の意味をいちいち相手に聞いて、話の腰を折るのも申し訳ないので、話の全体像がつかめれば、細かな意味は気にしません。

毎日の様に同じ人と会話をしていると、その人が良く使う単語や言い回しは覚えてしまうので、知らない単語が出てくる頻度もそんなに多くないというのもあるのかもしれません。

そしていつも旦那さんに、「今日はこんな新しい単語覚えた!」と伝えます。そうすると、こんな風にも使えるよ!といくつか例文を作って教えてくれます。

学生時代は、どうしても日本語の意味が知りたくて、新しい単語を聞くと和訳を調べていましたが、それもしなくなってしまいました。

今は、脳の英英辞書を使っている状態と似ているかもしれません。

この状態になってから、辞書を引く手間が省けて楽でいいのですが、この方法で覚えた単語の正確な日本語訳が分からないのです。

辞書引けばいいじゃん!と思われるかもしれませんが、辞書を引くのが「面倒くさい」というのも、理由の1つとしてあります。

しかし辞書を引くこともあるのです。ただ、その訳がしっくりこない事があり、英語の感覚で覚えた単語はそのままにしておく癖がついてしまいました。

例えば、この仕事を始めたばかりの頃、覚えることが多すぎて放心していると、店長から「Is it overwhelming?」と聞かれました。

正確な意味をその時は知らなかったのですが、こういう状態のことをそう言うんだなと予想はつきました。

「overwhelming」を辞書で引くこともなく、感覚で覚えたままにしておきました。

しかし家族や友達に、この前こんなことがお店であってね、なんてエピソードを話す時、その「overwhelming」をどう訳せばよいのか戸惑い、「あ~」「えーっとね」と考えて、それでもしっくりくる訳が見つからないと、「日本語で何と言うのか分からない」とつい言ってしまいたくなります。

「正しい日本語だと思って英語を使う」

そんなバカな!と思われるかもしれませんが、この前日本のお友達と電話で話している時に、「チャック」という日本語が浮かびませんでした。

そうです、そうです、洋服やポーチについているあのチャックです!英語では「zipper」と呼ばれています。

会話では「zipper」で無理矢理通してしまいましたが、「zipper」はなんとなく意味が通じるかもしれません。

しかし、これが友達も全然意味の分からない英単語を言ってしまっていたらどうだったでしょうか。違和感で収まれば良いですか、引かれちゃうかもしれません。

しかもこの「zipper」なのですが、チャックの絵が頭に浮かび「あれ?何て言うんだっけ。あ!zipperか!」という思考がなされて「zipper」にたどり着いたのです。

実際に「zipper」を目にした時、「ん?これ日本語ではチャックだよね、、、」と、英語を言っていた事に気がついて恥ずかしくなったのは、電話を切ってからだいぶ後のことでした。

そこでふと、日本語が出てこないという状態から、今度は英語を使っていることに気が付かなくなっている、とぞっとしました。

それと、日本語にはカタカナ英語がたくさんありますよね。あれが非常にややこしくなってきました。

例えばジャムやビールなんかが入っている「びん」!あれはアメリカでは「Glass Bottle」と呼ばれています。日本に住んでいた頃は「びん」は「びん」でしたが、アメリカに住み「びん」は「Glass Bottle」になりました。

そしてそれが「Glass Bottle」は「Glass Bottle」という感覚に変わり、いつかきっとびんの絵が頭に浮かんだ時、日本の方と話していても「Glass Bottle」と言ってしまうのかもしれません。

これを書きながら「Plastic Bagは日本語で何だったっけ?」と30秒ほど考え、「あ!ビニール袋か!」と思い出した、という感じなんです。

かなり症状が重くなってきています。

本当になんてこった、、、という思いですが、どうしても普段あまり使わない日本語の単語やフレーズが思い出しづらいです。

なんてこったと思いながらも、これからさらに長くなるアメリカ生活で、そうなってしまうのも仕方ないのかもしれない、と思わざる得ない部分もあるのが正直な気持ちです。

「(日本又は)日本人の感覚がうすれる」

「アメリカナイズ」とか「アメリカ(人)化」という言葉で表現されることもありますが、「アメリカ色に染まってしまった」という意味合いが、日本では強いでしょうか。

アメリカに住み始めてから、「アメリカナイズ」は「アメリカに染まる」というより、「アメリカに順応する」というイメージが強くなってきました。

アメリカに移住したばかりの頃は、「なぜそうなるのか」が理解できなかったので、「アメリカナイズされたくない」と思っていたこともありました。

「アメリカ感」にポジティブなイメージはあまり持っていませんでしたし、その違和感を自分が周りに感じさせる事に抵抗がありました。

しかし新しい土地に慣れるためには、自我を通してばかりいられない状況に置かれることもあります。

それがアメリカとなれば、私の場合、ほとんどの場面で日本人は私だけで、あとは皆アメリカ人です。

皆「あたりまえ」と思うことが同じで、「あなたは日本人だからそう考えるのね、そう行動するのね」と察してもらおうなんて、そんな期待はできません。

日本の文化や習慣を伝えたとしても、日本人の感覚や考え方を理解するのは、日本に住む外国人でも時間がかかります。

私の同僚は、日本人と話すのは私が初めてだと言っていました。「日本人ってこうなのよ!」なんて伝えきれないんですね。

こんな状況で、「日本人だったらありえない」「日本人なら絶対こうする」とか考えている場合じゃないのです。

郷に入っては郷に従えで、特にコミュニケーションの方法においては、アメリカ人があたりまえと思いすることは、私もあたりまえに出来た方が良いのです。

その環境に慣れるため、周りの人と上手くやるため、そして自分の居心地を良くするために、少々自分自身を調整しなきゃいけないことは、どこに住んでいてもありますよね。

新しい学校、職場、人間関係、、、日本に住んでいても同じだと思います。

それがアメリカという新しい土地だと、その土地の人々は言語も文化も習慣も違うのですね。

それゆえ、日本的感覚を必要とされる場面はほとんどありません。

「アメリカではこう」という感覚を身に付けていく地道な作業が続きます。

なかなか日本的な感覚が抜けず、アメリカ的要素を取り入れるのに苦労している間は辛いです。

良かれと思ってしたことが裏目に出たり、相手と意思疎通が上手く出来なくて誤解されたり、、、

それが日本人であるがゆえしていることであっても、日本人の感覚や文化、習慣を知らない人にとっては、その人個人の「パーソナリティー」と思われることもあります。

アメリカに順応するためにするんだ、日本魂はいつも心の中にある!日本に帰ればいつだって日本の感覚は戻る!と、アメリカに住み始めた頃は思っていました。

しかし、アメリカ生活が長くなり、慣れよう、慣れようと思ってしてきた事は、いつの日かとても自然なものになります。

アメリカに居るからこうした方がいいと思ってしていた事も、あたりまえになってきます。

そうなると「日本人としての自分」と「アメリカ的要素を取り入れた自分」の境目がうすれてきます。

まさにこれが私の言う、「日本人の感覚がうすれる」という状況なのであります。

そうなってきますと、日本の家族や友達が「あれ?」「えっ、、、」と思うことも増え、そこに変な違和感が生まれることもあります。

もうその時点で、日本で自分はどうしていたかという事は、うわ覚えになっていたりします。

私は全く器用な人間ではなくて、日本とアメリカのスイッチを上手く切り替えたりできません。

それを悪いこと、恥ずかしいことの様に思った事もありました。

でもこれを「アメリカに慣れてきたんだな!」と、ポジティブに捉えることにしました。

自分があたり前だと思っている考え方、ものの見方や習慣など、国が変わればあたり前ではなくなるという事は容易に想像が付くかもしれません。

しかし、実際にその違いを感じて、今までの「あたりまえ」の概念を変えていく作業というのは、全くシンプルなものではないです。

日本とアメリカ、どちらの「あたりまえ」に善いも悪いもありませんが、ありのままの自分らしく振舞おうとすると、「アメリカに順応した」ことを、「アメリカに染まった」と日本で捉えられることもあります。

そういう違和感は、居心地の悪さにつながったりしますが、経験したことのない人に「分かってよ!」と求めるのは、難しいものがあり、しちゃいけないですよね。

私はアメリカ人ぽく振舞いたいとか、アメリカ人の様に思われたいと思った事は、この土地に来てから一度もありません。

日本人であることをいつも誇りに思い、日本人らしさを忘れずにいたいと思っています。

アメリカという土地に自分を慣れさせ、居心地を良くする際に、「日本人の良さ」が、この土地では「良さ」として伝わらない事があります。

そんな時はその「良さ」を押し通すより、アメリカで良いとされているものを取り入れ、自分を調整していくことで、良い形に収まることがあります。

そうしていく中で、知らず知らずのうちに、元々の形がその土地に合ったものに変わるのですね。

それこそがまさに「順応性」なのだと、自分では思っています。

日本人らしさはうすれて行っているかもしれませんが、日本人としての心は誰よりも持っているつもりです。

これらの症状が強くなっていくのかもしれないと思うと、私は良くても、周りに違和感を感じさせるのはなんだかなぁ、とその事だけがしこりみたいにやっぱりあります。

そうは思っても、アメリカに住むことを決めたのは私です。

変化を恐れていては、新しいものは何も生まれません。

なるようにしかならないさ!

今日も前進あるのみです!

長い記事を読んで頂きありがとうございました。